ウシ胎児血清(Fetal bovine serum)をめぐり

その動物はまだ生まれはじめていない。母親の身体のなかで、でも、まだ死んでもいない。
暗黒の時。あるいは純白の時。
けれども心臓は鼓動を打っている。どくどくと。
その動物の心臓に鋼鉄のチューブが突き刺さる。そもう死んでいる母親の子宮を貫いて。
そして、その奇怪なチューブは子の血液を吸い上げる。
どくどく、どくどく。
そしてしばらくして、心臓の鼓動は止まる。
まだ生きはじめてもいないそのいのちは、そうしていのちであることをやめる。

この動物は、あたたかな血をもっている動物だ。
母のあたたかさを知り、外の冷たさから身を守る動物。
かれは、母がもう死んでいるということを知っているのだろうか?
じぶんの心臓から、血が抜かれているということを、知っているのだろうか?

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わたしたちには他者が存在する。「わたし」という自明な存在を揺るがす他者。わたしに不安感を抱かせる他者。
わたしたちはかれらを必死で見ないようにする。あるいは忘却するがままに任せる。普通に日常を生きていれば、意識の上ることはない、そんな存在たち。

「わたしたち」、それは2010年代も終わり、2019年に東アジアで生きるわたしたちのことを指す。貧しかった時代など生まれるはるかに前のこと、高度資本主義社会の消費主義を当然のものとして、また競争社会のなか、良い学校に行って良い会社に入り、できれば結婚と出産することを良しとする全体的雰囲気のなかで育ってきた、そんな人間のことを、ここでは指す。

でも一体、他者とは誰なのだろうか。それはきっと、わたしが知った、と思った瞬間にその知からはすりぬけてしまうものだ。知ったと思った瞬間、そうして認識によって捕獲されたものはもはや、他者そのものではないのだ。あるいはあるカテゴリーに属す、ということでもない。それはきっと、考えの外、自分が存在と認めるものたちの枠組みそのものを問うものたちなのだ。共感の外部。あるいは共感の質そのものを問い直す何か、誰かとして認識される前の。そのような一種の衝撃として。

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私は共感してしまった。その存在の無垢に。でも、この共感はなんなのだろう?
相手は、まだ生きてもいないし、死んでもいない。私の共感は、ある種のフェティシズムの様相を帯びるようでもある。
そうなのだろうか?

でも、きっとそうではないのだ。
それは、広く、深く、開かれている。


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これは、この世界で、とても大きな規模で行われていること。
この動物は人間という動物によって牛と呼ばれている。
牛と呼ばれる動物は、人間という動物の思うがままに、
かれらに自分の乳を与えるというためだけに生かされている。
でも、乳が出るためには子供を産まなきゃいけない。
乳の出が悪くなったら殺されるこの牛と呼ばれる動物が、子を孕んでいるときに殺されるとき、
その子の血が盗られるのだ。
そして、この血は、人間という動物をより長く生かすための医学実験に用いられるのだ。

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当事者性
witness 目撃すること
わたしの positionality


lynn mowson, boobscape, 2016-2017.

ウシ胎児血清について知ったのは lynn mowson による文章によってだった。
https://lynnmowson.com/

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