スー・コー(Sue Coe) について

スー・コーSue Coeというアーティスト/アクティヴィストを知っているだろうか?
イギリス出身で1972年にアメリカに移住した彼女が扱う主題は非常に幅広い。
クー・クラックス・クラン(KKK、アメリカの白人至上主義)からスウェットショップ、石油産業からアパルトヘイト、労働者の問題から女性のそれ、そしてエイズまで。

中でも私が始めて彼女の存在を知ったのは、工場式農場、そして屠殺場の問題を描いたものによってだ。
工場式農場、あるいは工場式畜産、そして屠殺場とは英語でそれぞれfactory farming、slaughterhouseと言う。
でも、初めてこの言葉を聞いたとき、これらの言葉の耳慣れなさにまず驚いた。
とりわけ工場式農場なんて、英語で見たとき、これを日本語でなんて訳すのだろうと思ったくらいなのだから。
そしてslaughterhouse。slaughterとは「虐殺」という意味でもある。
人間の大量殺戮と動物の大量殺戮が同じ言葉で表されるという事実。
動物の問題とナチスによるユダヤ人虐殺の問題はしばしば同時に取り扱われる(ここには本当にたくさんの議論があるだろう)。

「食べ物」として消費される「肉」。
――でも、それが作られる過程については、あまりにも知られていない。
それは、あたかもマジックのようだ。
動物たちは、私たちが知らない、見ようとしても容易には見ることができない場所、
「農場」という工場で生まれ育ち、「屠殺場」で殺される。
そこで、あけっぴろげに言って、ある「動物の死骸」は「肉」へと変換される。

動物たちは工場式農場で生まれ育つ間、ほとんど身動きもできず(とりわけ鶏はバッテリーケージという、雌豚はストールのためにほぼ監禁状態で)、彼らがはじめて太陽の陽を浴びるのはたいていの場合、殺されるために送られる食肉処理場、あるいは屠殺場への道においてだという。
こうして短い生を送らされる動物たちについて、想像するのがどれだけ難しいことだろうか。
コーは言う。
「(肉を食べるということについて考えることは)最も難しいことのうちの一つだと思います。なぜなら肉食は普通残虐なこととして受け止められていないからです。(I think it's one of the hardest things because [meat-eating] is not commonly accepted as cruel.)」

※ メアリー・ジョイは農場で動物たちに決して名前を与えないという。そうすると情が移ってしまう
  から。そうではなく、動物は「肉」と言う言葉もそうだけれど、「対象化objectification」を被る。牛
  や豚の「部位」をさまざまな名で呼ぶけど、それはまさにそういう効果を、つまり動物の死骸をそ    う感じさせないための心理的な効果を発生させるものだ。トリック、と言ってもよいだろう。

※ 工場式農場の具体的詳細については、アニマルライツセンター
   http://www.arcj.org/
  またさまざまな方のブログにも詳細が載っている。たとえば、
   http://ameblo.jp/vivihappieta/entry-11635200617.html


農場の隣り、屠殺場ので生まれ育ったというコーは、幼い頃から学校の実験室から動物を逃げさせたり、屠殺される予定の動物を匿ったりしてきたという。
後年、実際に絵を書くにあたってアメリカの屠殺場の内部にも足を踏み入れる。
屠殺場は写真撮影は禁止したがドローイングは許したという。
「ドローイングは分かち合われた時間の親密さを明らかにする(Drawing reveals intimacy of shared time)」、とは、コーの言葉。
まもなく殺される動物たちの最期の瞬間を記録するとは、一体、どういう感覚なんだろうか…。

slaughterhouse




鶏が過密飼いのストレスのためにつつき合わないようにするため、
雛の頃に麻酔なしでくちばしを切る様子…。


「sue coe」の画像検索結果

生まれたばかりの羊にはある尾を切る様子。
衛星上邪魔になるという理由だけで。


以下は工場式農場の本質を見事に抉り出すような作品。




コーは「動物の権利運動が一つの問題だ、すべてのアクティビストが一つの問題に関わっていると考えるのは政治的にナイーブだ(It's political naivete to think that animal rights activism is one-issue-that any activist is "one-issue")」と語っているけど、確かに、動物の権利の問題は、ほかのすべての社会問題と通底している。それを端的に表すのが以下のような作品。



いかに肉食が権力と結びついているか――きっと多くの説明は不要。




これまで無自覚に消費してきた「肉」――その背後にある殺された動物たちの亡霊にとりつかれる人間の姿…。




ウォール・ストリートの占拠運動についてはよく知られていると思う。
そしてそのスローガン「私たちが99%だ」についても。
そこからコーはさらに「動物たちが99%だ」というメッセージを投げかけるに至る。
ここに込められた意味をインタビューで語っているので載せておく。

「支配階級がその権力を維持するのにこれ以上の中流階級を必要としないことを理解したために人間の99%が完全に無視されているように、動物たちは無視されている。しかしそれのみならず、動物たちはどんな社会正義のための闘争においてもほとんど言及されないために、不可視化されてもいる。オキュパイ運動は私が覚えている限りで闘争において動物に言及した最初のグループだ。ポール・ワトソンが語ったように、『虫が人間なしで生きられないように、人間は虫なしで生きることができない』(Just the human 99% is totally ignored because the dominant class has figured out they do not need a middle class anymore to stay rich and keep their power, animals are not just ignored--they are made invisible, because they are rarely mentioned in any social justice struggle. OWS was the first group that I can remember that mentioned animals as a part of the struggle. As Paul Watson says, "A worm can live without humans, humans cannot exist without worms")」。


コーは言う。
「南アフリカのアパルトヘイトの闘士が語ったように――『黒人と白人が共存すべきだということには同意するが、まずは黒人が実際に存在しなければならない』。人々は自分が正しいと信じることをせねばならないのです。(as one revolutionary in the times of South African apartheid stated, "I agree blacks and whites should coexist, but first blacks have to actually exist." People have to do what they believe to be right.)」。
これまで黒人が、白人になろうとしてもなれない、白人の他者としての存在する限りでの、いわば白人のサブカテゴリーとしての黒人であったなら、そうではない、黒人そのものとしての自己を肯定する勇気を持つ必要がある、ということなのだろうと思う。
これはきっと日本の文脈では、在日朝鮮人の人たちが自らの朝鮮名を名乗る勇気と確かに通じるものだろう。

まずはその「一歩」を踏み出さねばならない。
ヴィーガンへの、生きものを傷つけたくないという選択への「一歩」と、
黒人や、在日朝鮮人の人々の「一歩」は、その質において途方もない違いがあるだろうけれど、
それでも奥深く、通じるものがあると思う。
そして、ヴィーガン的な「一歩」について言えば、
きっとそれは重大な決意をともなうようなものではないはずだ。
むしろ、毎日、毎回の食事の度にその「一歩」を踏み出すチャンスがあると考えるなら、
その一回一回が「より残虐ではない」生を生きる機会だと考えるなら、
むしろこれはとても実践的で、肯定的な思想なんじゃないだろうか。
そしてもちろんそれは、食事にとどまらない、生きるという営みのすべてに広がっていくものだろう。
少しずつ、でも着々と。



最期に、なぜ動物が大切なのかと問われて、コーが答えた部分はとても印象的だ。
それは「感嘆awe」という言葉に凝縮されるものだと思う。
コーは返答を、夜空を見上げるときに抱く想像からはじめる。
宇宙のなかに、銀河系のなかにいるという感覚。
それは、この地球上の文字通り数え切れない種の生命の美しさへの感受性へとひろがっていく。
そしてコーがともにある犬の瞳を見つめるとき、あるいは彼/女にみつめられるとき、
コーはその犬が私の犬ではなく、単なる「犬という創造物dog creature」、
さらには「犬という人dog person」だと語る。
コーは、そこに犬とのあるコミュニケーションを発見するのと同時に、
それが根底的に人間同士のそれとちっとも変わらないことに気づく。
それは、コーによるとまるで「楽園paradise」のようだ。
だからこそ、コーはこう語る。
「その存在が傷つくのを見ること――それはまるであなたが想像できる限り最悪の傷なのです。(too see that being hurt--it's just like the worst wound in your soul that you can imagine)」

ありのままの世界に対する驚きと感動。
コーのアート/アクティビズムの根底にはこうした喜びの情動が流れているように感じられる。
(コーがインタヴュアーの予想通り、「幸せな動物happy animals」の絵をたくさん隠し持っているというのも全く頷ける!)
広漠とひろがる宇宙、銀河系の太陽系なかの地球と言う惑星の上にある、
この私というちっぽけな個体の生、そして同じくその上にある大気から、水、大地、
そしてありとあらゆる生き物たち――それは純粋な「贈り物gift」だ。
だから、それを少しでも守っていくこと。
そしてそれは自分が守られるということでもある
(Protect it slightly, and be protected as well)。



* 参考にしたサイト
http://bombmagazine.org/article/6696/
http://mbf.blogs.com/files/conversation-with-sue-coe.pdf

* スー・コー自身のサイト 
http://www.graphicwitness.org/coe/enter.htm


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