4年間ソウルに住んで。(2)

それは今でもある。
ちょっとは少なくなったかもだけど、未だにアジュモニ、ハルモニの存在感はこのヘバンチョンに健在だ。
でも、感じ方は変わった。そんな風景を見て、今でも良いなとは思うけれど、自然、当然のように感じられるようになったとでも言おうか。今では、前は、それこそ、彼女たちが自分にとって当然のごとく異なる存在だからそう感じられたのだと思う。

なぜだろう。

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いくつかあるうちの一つの理由としては、私のパースペクティブが変わってしまったということがあると思う。
前は、知らず知らずの間に韓国の年配の人々を「民衆」みたいなカテゴリーで、そういうパースペクティブで見てしまっていたのだと思う。もっと言えば、「抑圧された民衆」。

これは一面の真実を含んでいるとは思う。アジュモニ、アジョシ、そしてハルモニ、ハラボジはもちろん、日本による植民地支配によって、そしてその傷跡から生まれた大韓民国の独裁政権時代の政治や徴兵制などなどによって、若い時相当な苦労をしたんだと思う。それは、虐げられて来た民衆、と呼べるかもしれないところにに彼らを放り込む。そういう中で、韓国特有のパワフルさとか、政治的運動での機動性とか、情とか、日本民衆にはないいろんなものが醸し出されたのだと思う。それが民主化を可能にした一つの要素でもあるとは思う。

でも、時代は変わった。韓国という国は今や経済大国であって、新植民地主義の被害者であるよりかはその加害者、そこから利益を引き出している国家連合のうちの一つだ。この中で、私はむしろ今、「民衆」なるものの内部の複雑さーとりわけ女性や性少数者の問題(日本とは異なり、MeToo運動は韓国で政界、法曹界、文化界、芸術界、映画界などなどあらゆる領域で爆発的な影響をもたらした)ーと、「民衆」から排除される存在ー移住労働者、そして動物の問題ーをより鋭敏に察知してしまわずにはいない。

もちろん、日本の朝鮮に対する植民地支配、そして韓国に対する新植民地主義的搾取を考えることは必要だけれど、その反省をいま生かすためにはやっぱりいま起きている問題を見て、コミットしなきゃいけないと思う。

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(他にも色々と考えて見たけれど、省略。そしてやっぱり大きな変化は、「動物」という問題意識が芽生えたこと)

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頭でっかちだな、と思う。
そんな「問題意識」の手前で、この町のアジュモニやハルモニともっと親しくなれたかもしれないのに、と思いもする。
でも仕方ない。問題意識が育つのは早いけれど、からだの姿勢や態度が変わるのは遅いもの。
ゆっくりと、色々と変わっていけば良い。

ひとまずは私のような異邦人も受け入れてくれた、懐の深い、ヘバンチョンに、感謝。






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