牛乳はフェミニスト的問題か?

友人がFBでシェアしてくれた記事を日本語に移してみた。(韓国語訳をグーグル翻訳で日本語にしたのを参考にするという裏技つき!)最近、とはいっても数ヶ月前、韓国語のソースで牛乳がどうやってつくられているか、わかりづらいなと思って牛乳、乳牛についてのジンを個人的に作成・配布していたのだけど、まさにこの牛乳/乳牛とフェミニズムとの関係についての一考察。

とりわけ、エコフェミニズムの人気がなくなっていくにつれて「動物や環境にはほとんど関心を持たないポストモダンフェミニズム」が支配的になるというのは、考えさせる。ここでのポストモダンフェミニズムとはきっと、ジュディス・バトラーのクイア理論のようなものを指しているんだろうと思うのだけど、女性と自然をナイーブに同一視するエコフェミニズムへのクイア的立場からの批判は当然のものとしてあるだろう。(要するに、女性という性そのものが、そんなに自然ではないというもの。)けれども、この「ポストモダンフェミニズム」のある種の脱人間中心主義を理論的に押し進めていけば、それは人間と人間以外の動物を分けることを問いに付し、その人間以外の動物をも倫理的考察の対象に含めるしかなくなるのでは?だから、筆者が語る第四波とは、決して第三波と断絶したところにあるのではないのでは?そんなことを感じた。
そして、きっとその時、「女」だけではなく、「男」も、そしてその他の「n個の性」を備えた有象無象も、人間の世界が「乳牛」と呼ぶ、自分の子を奪われて悲嘆に暮れるあるやさしい生きものに共感することが可能になるんじゃないだろうか?



牛乳はフェミニスト的問題か?
http://www.barefootvegan.com/barefootvegan-online/why-milk-is-a-feminist-issue

フェミニストとして、私は牛乳を飲むフェミニストたちがそのような自分の行動についてどのように考えているのか知りたいと思う。彼女たちは牛乳がどのように生産されるか知っているのか?彼女たちはそれに気を使うか?今日の酪農場の閉ざされたドアの向こうで何が起きているのかを知った後にも、彼女たちはいまだに牛乳を飲むか?

女性に対する暴力事件が起きると、私たちはショックを受けて怒る。ところが強姦、強制妊娠、強制養子縁組は、すべての現代の酪農場で日常的に起きている。私たちは、私たちの体に起きることを選択して制御する権利を大切に考え、それを獲得するためにたたかう。一方、牛は何の選択肢も与えられないままこれらのことを繰り返させられて苦しむ。それも産業的な規模でだ。不都合な真実は、牛乳が悲嘆に暮れる母親からやって来るということだ。

フェミニズムは、女性の権利と平等を支持する共通の目標を有するさまざまな考えを含んでいる。一部のフェミニストたちは「女性」という用語をセックス(sex)ではなく、社会・文化的要因の影響を受けるジェンダー(gender)として理解する。 (自分を生まれながら付与された「セックス」ではなく、「ジェンダー」と同一視する)トランスジェンダーも社会の中で平等な位置を得るために闘争に乗り出している。おかげで、フェミニスト政治学の地平はより広くなった。さらに、あるフェミニストたちはフェミニズム運動に対する男性の共感がフェミニストの大義に役立つことを信じている。

もちろん、上記のような考えは議論の余地がある。しかし、大多数の人々は女性 ――ここには、自分を女性と思っているトランスジェンダーも含まれる――がこの社会の中で平等な位置を持たねばならないという点においては同意する。

フェミニスト政治学の主要な問題は、女性が自分のセクシュアリティと生殖器官を制御することができるという権利である。ここには避妊器具と中絶へのアクセスも含まれる。性暴力がどのように制御手段として使用されるか、そしてそれがどのように家父長制と資本主義をはじめとする抑圧と接続されているのかを示す証拠資料は十分にある。

例えば、夫婦間で行われる強姦は1991年になってようやく犯罪になった。売春防止法(Sexual Offences Act)がイングランドとウェールズで「同意」についての法的定義を下したのは、2003年になってようやくである。それまでは妻を強姦する行為は起訴対象にはならなかった。これは、結婚がすなわちセックスへの同意を意味するという考え、女性は結婚すると夫の所有物になるという考えに根幹を置いていた。比較的最近になって起きたこのような変化は、フェミニズムの第一波である女性参政権運動に続いて1960年代に起こったフェミニズムの第二波以降のキャンペーンを通じて活発に支持された。

1980年代には、フェミニズムの第三波が登場した。これは、女性を自然と接続させ、フェミニズムとエ​​コロジーを結合させたものであった。これは、「エコフェミニズム」と呼ばれた。グリーナム・コモンの女性平和キャンプで抗議デモを行ったフェミニストたちは、母としての自分たちのアイデンティティと子供と子孫に対する懸念を核兵器反対の根拠とした。ベジタリアン・エコフェミニズムは抑圧された農場動物(訳注:farmed animals、家畜とも呼ばれる)に共感する人々に人気を集めた。しかし、エコフェミニズムには、自らを他のフェミニストたちから遠ざけるような考えても含まれていた。ポルノはすべて悪いという考え、売春業従事者はすべてが犠牲者(彼らがそれを知っていようがいまいが)という考え、手術やホルモン療法でセックスやジェンダーを変えることは自然ではないと考えだ。

1990年代にエコフェミニズムは人気がなくなった。批評家は、エコフェミニズムが自然についての不可思議な考えを女性にとんでもない仕方で接続させたものであり、解放イデオロギーはなく、退化的だと語った。エコフェミニストたちには自民族中心的、反学術的であり、非合理的な女神を崇拝する人々というレッテルが貼られ、エコフェミニズムは支持を失うことになった。動物の虐待と女性の抑圧を関連づけることは、主に、人間に重点を置いて動物や環境にはほとんど関心を持たないポストモダンフェミニズムによって却下された。人間中心的なフェミニズムが、2000年代初めフェミニストたちの考えを支配するようになった。

2015年、私たちは明らかにフェミニズムの第四波を経過している。一部のフェミニストたちは女性の生殖権を暴力的に制御することには完全に反対し、人間が動物にそうすることは容認する世相に問題を提起する。社会正義、フェミニスト、動物の権利運動が互いに分離することができるのだろうか?女性と動物の生殖の自由との間の関連性は、本質的に家父長制と資本主義をはじめとする抑圧と関連があると主張することができる。そうであるならば、ある抑圧には反対しながらある抑圧には反対しない理由は何であろうか?これは、種差別主義(speciesism)と呼ばれる思考方式による。種差別主義は個別的な諸々の存在にそれが属している種に応じて異なる道徳的価値と権利を付与したり、任意の存在を他の存在よりも特別な考慮の対象とみなす。

一部の人々は、種差別主義が人種差別主義と同じような偏見だと主張している。だから農場の家畜は人間の奴隷に喩えられたりもする。マージョリー・シュピーゲル(Marjorie Spiegel)は、「恐ろしい比較:動物の奴隷と人間の奴隷(The Dreaded Comparison:Animal Slavery and Human Slavery)」という本に「人間と動物の双方が、移動の自由を拘束されるとき、社会的自由を奪われるとき、愛する存在を失うとき、痛みを感じる能力を持っている。人間と動物はみな、狩りをされたり、いじめられたり、怪我をしたときに恐怖を感じることができる。人間と動物はみな、対象化されてきたのであり、感情を感じる自己主導的な個人ではなく、所有物として扱われてきた...」と綴った。興味深いことに、アリス・ウォーカー(Alice Walker)は、この本の序文にこう書き記した。 「この世界の動物は、彼らなりの存在の理由がある。黒人が白人のために作成されたものではないかのように、女性が男性のために作成されたものではないかのように、動物も人間のために創造されたものではない。」

ところで、私たちはなぜ人間ではない動物に共感しなければならないのだろう?農場動物は人間であれば到底耐えることができない環境で飼育されている。それにもかかわらず農場動物が苦痛を感じないと考えている人がいる。これは通常、農場動物が人間よりも知能が低く、自意識がないからという考えに基づいている。けれどもこのような考えが間違っていることを示す研究結果が増加している。ブリストル大学のジョン・ウェブスター(John Webster)畜産学名誉教授はこう言う。 「人々は苦痛を感じる能力が知能と関連があり、動物は人間よりも脳が小さいので、痛みをあまり感じないだろうと考えてきた。これはまったく救いようのない論理のでっちあげである。」

牛が従順で愚鈍な動物だというのは誤った考えである。研究を通じて明らかになったところによると、牛は友情を育て、恨みを抱きあうこともあり、知的挑戦を受けると興奮する。また、痛み、恐怖、不安のような強力な感情を感じることができる。牛は、将来を心配する一方で、大きな幸せを感じることもできる。同様の特徴が豚・ヤギ・鶏をはじめとするいくつかの動物でも発見された。科学者たちは、彼らは感情的に人間と同じような動物であるために動物福祉法を再考する必要があると語る。ブリストル大学のクリスティンニコール(Christine Nicol)動物福祉教授は、「信じられないほどの認知能力と文化的な革新が発見された」と述べた。

牛がもともと牛乳を生産する動物だということも間違った考えである。人間と同じように、牛は9ヶ月間の妊娠と出産を経てはじめて乳を出す。

牛と子牛とでかたちづくられる酪農場ののどかなイメージは、今日の神話にすぎない。現代の酪農場で牛は生後一年が過ぎると、狭い檻に閉じ込められて「強姦台(rape rack)」と呼ばれる器具によって強制的に妊娠をさせられる。その後に生まれた子は、人々が牛乳を飲むことができるよう奪われる。本来牛は9ヶ月から1年の間授乳する動物であるが、酪農場で生まれた子牛は生後1-2日で母と分離される。雄の子牛は酪農場では不必要な副産物である。そこで英国では毎年10万匹以上の雄牛が、生後直後に屠殺されたり仔牛肉(veal)用に売られていく。

牛は毎日20リットル以上の牛乳を生産するのだが、これは自然の中で子牛が飲むよりもはるかに多くの量である。乳を継続して生産するために、牛は出産後間もなく再び妊娠をさせられる。集約的な現代の酪農場の高度に制御されたシステムにおいて牛の妊娠と授乳は同時になされており、これは牛が一年のほとんどの間、妊娠したまま乳を搾り出されるということを意味する。分娩中に筋肉や神経が損傷されており一人で立てない牛は後ろ足に足かせがはめられもする。

このように酷使されるために、酪農場の乳牛は体に非常に負担がかかり、幼い頃から不妊と、乳腺炎・蹄葉炎などの深刻な感染症に悩まされる。そして、これは牛の経済的・生産的な生を短縮させる。虐待の直接の結果物として、このような苦痛に満ちた疾患を得るようになるのだ。肉体的虐待によって荒廃した牛は、最終的には屠殺され、パイとパスティー(訳注:肉と野菜に牛肉を入れて作った小さなパイ)、さらにはベビーフード用の安い材料となる。今日の酪農場乳牛の平均寿命は5年程度であり、母乳が分泌される期間を3回から4回経る。一方、牛は自然の中で20〜30年を生きることができる。

牛乳は強姦・誘拐・拷問・殺害の産物である。

ほとんどの人は動物を対象とした性暴行や強制的な性行為に嫌悪を感じる。酪農場の牛がまさにこのような行為をされているのに、私たちは、なぜそれを見て見ぬふりするのだろうか?牛乳は利益のために、女性の身体の生殖能力を搾取して得た産物である。これをフェミニスト的問題として考えることは、完全に擁護可能な政治的立場である。

アメリカの作家、フェミニスト、活動家、動物の権利の支持者であるキャロルJ.アダムス(Carol J. Adams)は、「私は人間の女性だけでなく、すべての女性の動物たちが再生産の自由を持つことを望む」と述べた。彼女は23歳の若さでフェミニズムとベジタリアニズム、そして肉食と家父長制世界の間に関連性が存在することに気づいた。そして、<The Sexual Politics of Meat:A Feminist-Vegetarian Critical Theory(邦訳は、『肉食という性の政治学――フェミニズム-ベジタリアニズム批評』鶴田静訳)」という革新的な本で、人間と人間以外の動物に対する様々な暴力の間の関連性を考察した。

乳牛の脳には、人間と同じように感情を担当する領域がある。母牛は、子を奪われたら、非常に苦しみ大きな声で泣き叫ぶ。搾乳機が乳房から乳を吸い上げる間にも、彼らはまだ悲嘆に暮れている。

牛乳はフェミニスト的問題であるか?私は当然そうだと主張する。私たちが享受する性的、再生産的選択を乳牛たちは否定されている。身体的・感情的苦痛によってつくり上げられた拷問の柵に閉じ込められ、結局は倒れる。牛乳は悲痛な母親たちから搾り取られるものなのだ。

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