動物は自ら語ることができない――それは私たちにかかっている。

一読してなかなか感銘を受けた文章。"The Lives of Animals"というブログのタイトルも、実はクッツェーの小説から引いてきたものでもある。
最後、若干楽観的な方に傾いてしまうのを除いては(動物を利用した産業は今も圧倒的だが、これから中国やインドなど、「発展中」の国々ではさらに巨大化してしまうかもしれないのだから)、かなり共感できるものだった。

とりわけクッツェーらしい、身の引き方だなと思ったのは、最終段落、「動物たちは確かに私たち人間が何が間違っているのかを知るようには何が間違っているのかを知ることはない。こうしてどれだけ善意ある後援者たちが彼あるいは彼女の伴侶である動物を親密に感じるとしても、動物権の活動は終始一貫して人間の試みに留まるのである。」という部分。
このような他者感覚は、きっとアパルトヘイト下の南アフリカで生まれ育った作家の感性を鋭く反映したものなのだろうと思ったりもする。

けれどもこれは、見方によるときっと、あらゆる少数者運動にたいして、とりわけ少数者運動に参与する「多数者」側の人間にとっても言うことができるんじゃないだろうかとも思う。少数者運動に多数者が参加するのは、少数者から「感情的見返り」を受けるためでは決してない。(これはどれだけ強調しても良いだろう。「同情」や「慈悲」等々の感情ほど有害なものはない。)
結局のところ、「多数者」と「少数者」を分かつ線ほど不安定なものはないわけで、「少数者」の生が劣悪に扱われることは、今「多数者」だと思っている人々の生を影で深く蝕むものであらざるをえない。(もちろん少数者の痛みへの共感もあるだろうし、同じ社会で生きている他者にそのような痛みを強要する社会への怒りもあるだろうけれども。)

すこし、話が飛躍してしまったかもしれないけれど、そんなことを思った。


動物は自ら語ることができない――それは私たちにかかっている。(J. M. Coetzee
http://www.theage.com.au/news/opinion/animals-cant-speak-for-themselves--its-up-to-us/2007/02/21/1171733841769.html?page=fullpage#contentSwap1

考える人であれば誰にとっても、人間が食べ物のために依存している動物たちと人間の間の関係において何か途方もなく間違ったことが起きているということは明らかであろう。そして、この100年か150年かの間に伝統的畜産が工場式生産方式を利用する産業へ転換しながら、もともと間違っていたものが巨大な規模で間違ったものになったということは。

私たち人間と動物たちとの間違った関係にはさまざまな仕方があるが(二つだけ名前を挙げるなら:毛皮交易と動物実験)、食品産業、つまり生きている動物をそれが婉曲的に動物性食品(animal product、畜産品とも訳されるが、ここげは原文を尊重してこう記すことにする)――動物性食品と動物副産物――と名づけるところものに変形させるこの産業はそれが影響を与える動物個体の数においてあらゆるほかの動物利用の形態を圧倒する。

圧倒的に大部分の人々は動物の産業的利用において曖昧な態度を維持している。彼らはこの産業が生産する製品を利用しながら、それにもかかわらず工場式農場や屠殺場でおきていることを考えるときには少なからずうんざりしたり、吐き気をもよおしたりするのだ。したがって彼らは自分たちの生活ができる限り飼育場や屠殺場を思い起こす必要がないようにアレンジし、自分たちの子供たちがそのような暗がりに留まることができるように最善を尽くす。私たちみなが知っているように、子供たちはやさしい心を持っており、たやすく心を動かされてしまうからだ。

動物たちの生産設備への変形は19世紀の後半まで遡るが、私たちの伴侶である動物という存在を単に何らかの部品に過ぎないものとして考え、扱うことは深く、宇宙的な次元において間違ったことであるという警告はすでに広大な規模でその当時からなされていた。この警告は人々が無視することが不可能だと考える程にまで騒がしく、明白なものとなった。それは20世紀中盤にドイツで強力で冷酷な人間たちの集団が当時シカゴで開拓、完成されていた産業的家畜収容所の方法を人間を殺戮するために――あるいは彼らが好んだ仕方で言えば処理するために――応用するという考えをひらめいた時である。

もちろん私たちは彼らがしていたことを発見したとき恐怖で泣き叫んだ。私たちはこんな風に叫んだろう。なんて恐ろしい犯罪なんだ、人間を牛のように扱うなんて!私たちが事前に知ってさえいれば!だが私たちの叫びはより正確にはこのようでなければならなかったろう。なんて恐ろしい犯罪なんだ、人間を産業的製造過程の部品のように扱うなんて!そしてその叫びには後書きが付け加えられねばならない。なんて恐ろしい犯罪なんだ、考えてもみよ――自然に対する犯罪だ――生きている存在を産業的過程の部品のように扱うなんて!

伝統的畜産を動物性食品の産業が至り得ない高い基準を持っているものとして理想化するのは間違いだ。ただ規模が小さいのみで、伝統的畜産もまた十分に残酷だ。両者における実践を価値判断するためのよりマシな基準は単に人間性の基準であるのみだ。すなわち、これが本当に人間にとって可能な最高の選択であるのか?という問いによってだ。

動物権運動のこれまでの努力――動物福祉(animal welfare)の改良主義と動物解放(animal liberation)の急進主義を両極に持つスペクトラムのどこかに自らを位置づける幅の広い運動――は正しくもまともな人々に対して向けられている。何か非常にいかがわしい匂いがすることが起きているということを知っていると同時に知らない人々、このように語るであろう人々――「はい、確かにお母さん豚が生きる生、牛の赤ちゃんが生きる生は恐ろしいものだと思います」――だがそれからは力なく肩をすくめてはこのように付け加える人々だ――「だけど、私にいったい何ができるって言うんですか?」

運動の課題はそのような人々が工場式畜産の動物たちが生きる生と死を垣間見ることによってそれらに抵抗感を覚えた後、彼らに何をすべきかの創意に富んだ実践的オプションを提案することにある。人々は、動物性製品の支持に加担してしまうことに対するオルタナティブな方法があるということを、この代案の数々は必ずしも健康や栄養の犠牲を意味するものではないということを、この代案がコストが掛かるものであるはずがないということを、そしてさらにしばしば犠牲と呼ばれるところのものが実のところまったく犠牲ではないということ――つまり、大きな視野から見れば唯一の犠牲とは事実、人間以外の動物たちによって担われるということをまっすぐに見る必要がある。

このような観点において子供たちはもっとも明るい希望を提供してくれる。子供たちはやさしい心を持っている。つまり、子供たちはまだ積年の残酷で不自然な心の殴打によって固くなってしまってはいない心を持っている。ある程度の機会が与えられるなら、子供たちは広告が彼らに吹き込む嘘の数々を見抜くことができる(どんな痛みもなくジューシーなナゲットに変身してくれる幸せなニワトリさん、あり余る彼女の乳を私たちに贈り物してくれるにこやかな牛さん)。あるひとりの子供が生涯に渡ってベジタリアンに変わるためにはその子が屠殺場を一度ちらりと見るので十分である。

工場式畜産は畜産の歴史において非常に新しい現象だ。良いニュースとはその影にいるビジネスマンたちが自由で無限の拡張だと信じてきた産業が数十年の後、守備的な姿勢を取らざるを得ない状態になっているということだ。

動物権に関わる諸機関の活動は産業に自らの行為を正当化するように責任を迫った。そしてその実践が最も狭い経済的理由を除いては(「1ダースの卵のために1.5ドル以上払いたいのか?」)弁明も正当化も不可能なものであるためにいまや産業はおのれの施設がぶち壊され嵐によって吹き飛ばされてしまうことを望んでいる。公的な関係において戦争がある限り、産業はすでにその戦争に負けている。

最後通牒として。人間の動物権のための活動はある観点において興味深い。すなわち、人間が彼らを代理して活動している生物たちはその後援者たちが何をなそうとしているのか知ることがなく、もしこの後援者たちが成功したとしても、彼らに感謝することはないだろうということだ。動物たちは何が間違っているのかわからないということすら一理がある。


動物たちは確かに私たち人間が何が間違っているのかを知るようには何が間違っているのかを知ることはない。こうしてどれだけ善意ある後援者たちが彼あるいは彼女の伴侶である動物を親密に感じるとしても、動物権の活動は終始一貫して人間の試みに留まるのである。

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