コミュニケーションについて。
今日、近くの図書館に行った時の帰り際、知的障碍をもった女の子がいるのに気づいた。そのこと自体はそこまで特別なことじゃないから、ふつうに通り過ぎ、自転車に乗って帰ろうとした——そのとき、その子がガラス越しに、わたしをしきりに見ようとして(私の自転車がガラスでできた壁越しの外にあった)、レースのカーテンをめくろうとしているのに気づいた。それを親らしき人が止めようとするのだけど、そのとき、なんとその子が私に手を振っている。それで、親らしき人も、「バイバーイ」と。私はとっさに手を振ることまではできなかったけれど、自然と表情はほぐれ、なんとなく頭で挨拶はした(できた、とおもう)。帰り道、なんとも心がほぐれる思いがした——「あの子にとって、壁は存在しないんだな」。初めて会う、会うというほどでもない名前も何も知らない他人に向かって、挨拶をすることは難しい(ある人にとっては、一つの哲学論文を書いたり、難しい数学方程式を解くことよりも、ずっと)。それを、かくも簡単にやってのけることができるというそのことが、なんとも嬉しいことに思われたのだった。
コミュニケーションというのは、言葉ではない。いや、言葉でない領域においてこそ、きちんと見ればずっと多くの、あるいはずっと意味のあるコミュニケーションができている、と思うことが、最近いくつかあった。
昨日もそうだ。痴呆になって、私の名前をもはや覚えてはいない祖母に会いに行ったときのこと。祖母は、何かしゃべりかけても「いうてることしりまへん」と、失望(自分自身への?その悔しさゆえの?)が混じった口調で語り、あるいは「ようしてもうてありがたきありがたきしあわせや」と、とことんへりくだって自分の待遇にたいする感謝をあらわにする(祖母のこれまでの苦労と一生を考えたら、報いというにも足りないのに——祖母にそんなふうに感じさせてしまうこの社会と文化のありかたを考えさせられる)。祖母の名前を呼ぶときちんとした語調で「はい」と答え、ほぼ毎日面会に来る近所に住む叔母の名前は自分の名前以外で記憶している唯一の名前だ。面会には1時間ほどいたと思うけれど、寝ているのかなというときもあり、私がここにいるのが祖母にとってうれしいことなのかどうか、掴みようがなかった。でも、それが言葉を通したコミュニケーションを特別視している自分の感覚のせいかなと思ったのは——祖母が時折ぱっと目を開き、私と目が合うと目を丸め、口を若干すぼめるようなかたちで(これは昔の女性に特有なのだろうか)ほんとうに愛らしく微笑みを浮かべるときだった。それは、「ことばしりまへん」と言うときの失望感の滲んだ語調とはびっくりするほど対照的なもの。そして、この感覚は帰り際にさらに強まった。途中から手を握りはじめ、そろそろ帰るかという頃、それを伝えると——「いかんといてくれる?」「もうちょっとおってくれる?」と懇願するのだ。祖母にとって、言葉でのコミュニケーション云々ではない、ただ、私という生身の人間がいるということが、その空気感覚、あるいはその肌をとおしたあたたかみが、大切なのだ。
ここで、生身の人間、という言葉で立ち止まりたい。この言葉は、これが慣用句のように使われるから使ったまでだ。けれども実際のところ、「生身」をもっているのは、「人間」だけじゃない。
たとえば、実家で飼っている犬がそうだ。彼女は不安分離症で、父と母がすべての犬だ。二人が出かけるたびに吠え、あるいは震えて、出かけないでほしいという思いを全身で表現する。(一方の私はというと、ただの友だちくらいに思ってるんじゃないか。一緒に遊んだり、体、とりわけお腹を撫でてくれると気持ちいいから、一緒にいてあげてる存在)また口論が始まると、決まって不安そうに、おびえた様子でこちらをまなざすし、あるときはぶるぶると震えすらする。何を言っているのか彼女にはわからないから、荒々しい言葉が飛び交っていることは、おそらくそれ自体で暴力なのだろう。さらにはあるときなど、もっと不思議な行動を彼女が取ったときもあった。そのとき私はすごく怒っていたのだけど、彼女はむしろ私のほうに駆け寄ってきて、「あそんであそんで」のモードになったのだ——あたかも、自分がそうすることによって場のムードを和ませることができると考えたかのように。
言葉を通したコミュニケーションをしてても、コミュニケーションがほんとうに成立しているのか不安になることはしょっちゅうで、むしろ言葉を、人間がおもう言語というかたちでは(ほとんど)もたない存在とコミュニケーションをとりながら、どこかより深い疎通があると感じることは多々ある。言葉を操ることや、理知的なことばかりを価値づけることは、いい加減やめたほうがいいんじゃないか、と思うこの頃だ。
コミュニケーションというのは、言葉ではない。いや、言葉でない領域においてこそ、きちんと見ればずっと多くの、あるいはずっと意味のあるコミュニケーションができている、と思うことが、最近いくつかあった。
昨日もそうだ。痴呆になって、私の名前をもはや覚えてはいない祖母に会いに行ったときのこと。祖母は、何かしゃべりかけても「いうてることしりまへん」と、失望(自分自身への?その悔しさゆえの?)が混じった口調で語り、あるいは「ようしてもうてありがたきありがたきしあわせや」と、とことんへりくだって自分の待遇にたいする感謝をあらわにする(祖母のこれまでの苦労と一生を考えたら、報いというにも足りないのに——祖母にそんなふうに感じさせてしまうこの社会と文化のありかたを考えさせられる)。祖母の名前を呼ぶときちんとした語調で「はい」と答え、ほぼ毎日面会に来る近所に住む叔母の名前は自分の名前以外で記憶している唯一の名前だ。面会には1時間ほどいたと思うけれど、寝ているのかなというときもあり、私がここにいるのが祖母にとってうれしいことなのかどうか、掴みようがなかった。でも、それが言葉を通したコミュニケーションを特別視している自分の感覚のせいかなと思ったのは——祖母が時折ぱっと目を開き、私と目が合うと目を丸め、口を若干すぼめるようなかたちで(これは昔の女性に特有なのだろうか)ほんとうに愛らしく微笑みを浮かべるときだった。それは、「ことばしりまへん」と言うときの失望感の滲んだ語調とはびっくりするほど対照的なもの。そして、この感覚は帰り際にさらに強まった。途中から手を握りはじめ、そろそろ帰るかという頃、それを伝えると——「いかんといてくれる?」「もうちょっとおってくれる?」と懇願するのだ。祖母にとって、言葉でのコミュニケーション云々ではない、ただ、私という生身の人間がいるということが、その空気感覚、あるいはその肌をとおしたあたたかみが、大切なのだ。
ここで、生身の人間、という言葉で立ち止まりたい。この言葉は、これが慣用句のように使われるから使ったまでだ。けれども実際のところ、「生身」をもっているのは、「人間」だけじゃない。
たとえば、実家で飼っている犬がそうだ。彼女は不安分離症で、父と母がすべての犬だ。二人が出かけるたびに吠え、あるいは震えて、出かけないでほしいという思いを全身で表現する。(一方の私はというと、ただの友だちくらいに思ってるんじゃないか。一緒に遊んだり、体、とりわけお腹を撫でてくれると気持ちいいから、一緒にいてあげてる存在)また口論が始まると、決まって不安そうに、おびえた様子でこちらをまなざすし、あるときはぶるぶると震えすらする。何を言っているのか彼女にはわからないから、荒々しい言葉が飛び交っていることは、おそらくそれ自体で暴力なのだろう。さらにはあるときなど、もっと不思議な行動を彼女が取ったときもあった。そのとき私はすごく怒っていたのだけど、彼女はむしろ私のほうに駆け寄ってきて、「あそんであそんで」のモードになったのだ——あたかも、自分がそうすることによって場のムードを和ませることができると考えたかのように。
言葉を通したコミュニケーションをしてても、コミュニケーションがほんとうに成立しているのか不安になることはしょっちゅうで、むしろ言葉を、人間がおもう言語というかたちでは(ほとんど)もたない存在とコミュニケーションをとりながら、どこかより深い疎通があると感じることは多々ある。言葉を操ることや、理知的なことばかりを価値づけることは、いい加減やめたほうがいいんじゃないか、と思うこの頃だ。
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