イ・スラという作家
イ・スラ(이슬아)という作家の存在を知った。知人から前に教えてもらっていたのだけど、怠け癖で、というか忘れていて、検索もしないでいたのが、パソコン上で偶然目にして検索してみると、なかなか面白いプロジェクトをしていることがわかった。
その名も「日刊イ・スラ」。「エッセイ労働者」として、会社員と同じ月曜から金曜まで毎日一つのエッセイをお届けする、というものだ。購読料、月1万ウォンなり。中間マージンなし、ということで、現在のインスタグラムフォロワー数からするとおそらく数万の購読者に毎日エッセイをお届けしている、というわけだ。そして彼女はなんと(でもないのか)91年生まれ。いろいろと不安定な社会のなかで、サバイブしてきた人の感がある。実際、この企画を始める前まで雑誌社で働いたり文章を書く先生をしたり、はたまた何かのモデルをしたりと、いろいろと苦労しているよう。そして、学資ローン2500万ウォン。でもおそらくこれはとっくのとうに返済済みで、というのもテレビにも紹介されていた自宅を見ると、まぁ豪邸だ。ソウル郊外に、二階建ての一軒家で猫と暮らしている。出勤は一階。出勤時間10秒。
この、エントレプレナー的な感がどうも共感しづらいのはある。資本主義、というのか、競争、というのか、ともかくもそのシビアな世界で生き残るために誠実にベストを尽くす、という姿勢がようく伝わる。そしてそれは彼女自身もよくわかっていて、ずっと自分がこうして生活してはいけないかもしれないという不安も常にあるらしい。実際に不安定な世の中で、「できなくてもいい」と思えたりすること自体が特権的なんだろうか?実際、「だめ連」に対して日本社会のマイノリティの人たちから寄せられる批判もこれに近いと思う。でも、これらのベクトルは、必ずしも排他的でなくてもいいんじゃないのか、という思いも残る。「できない人」のロールモデルもあっていいんじゃないのか?いやそれは語義矛盾なんだろうか?韓国でのんびり暮らしながら、この一生懸命の倫理といえばいいのかどうかわからないけれど、とにかく「それ」はかくも透明化されていて、疑問の余地すら挟めないような、疑問を挟んだらいけないように思わせる息苦しさを感じることが多々ある。
ともかく。彼女の講演をYouTubeで見ていて、文章を書くことは人生を二倍味わうことだというのが面白くて、いま文章を書いている。確かに。彼女によれば、文章を書くことで、人はそうでなければあっさり過ぎ去ってしまうようなこともきちんと考えられるようになる。自分の何気ない、あまりに何気なく過ぎ去っていく日常に、何か書き、考えることがあるんだろうか——もちろんあるし、歩いているとき、バスに乗るとき、何かに気づき、書きたいと思うのに過ぎ去っていったことがあまりに多いから、とりあえず今日でも何かしら書き残したいと思って、いま、書いている。
文章を書くことに対する割合シンプルな定義が、彼女の最新作のタイトルから得られる。『地道な人(부지런한 사람)』。自分の感覚が果てしなく鈍麻していくことに対する一つのセーフガードとして、文章を書く営みは機能しうるということだ(ちなみに彼女は、ヴィーガン志向ということでもある)。まさにこの瞬間、地球全体に影響を及ぼすアメリカの大統領選挙の開票が行われているけれど、名前もあげたくないあの人は、その鈍麻さの極北だろう。
自分の感覚に耳を澄ませること。とりあえずはまず、そこから始めてみたい。
<参考に、彼女のサイト>
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