いまも続く、「ホロコースト」——チャールズ・パターソン『永遠の絶滅収容所』を読んで

<消費される記憶——ノスタルジーという仕掛け>

「唯一の受け入れ可能なジェノサイドは歴史的なものである。それは慰めを与える——もう終わったことなのだと」(スー・コー)

ユダヤ人絶滅収容所の囚人の最期の2日を描いた映画、『サウルの息子』を観た。昔に観ていたらきっと涙して、こんな非道なことがあっていいのかと憤っていただろうこの映画。けれども動物の問題に関心をもつようになり、とりわけ『永遠の絶滅収容所』を読んだ後では、もっと冷静な気持ちにならざるを得ない。この映画では、何も知らない人間たちが裸にされ、ガス室に送られる姿、かれらがガス室で死んでいくときにあげる叫び声、死体が引きずられる姿、死体が積み上げられた山、あるいは焼却所が満杯のため、生き埋めにされる様子、すべて描かれる(ボカシは入るけれども)。でも、工場式畜産を知った以上、このすべての手続きはあまりにも見覚えのある様子だからだ。産業化された殺戮。その違いは、人間以外の動物たちの死体は「加工処理」されるのに対して、絶滅収容所は殺害に特化していることくらいだろうか(犠牲者の骨が石鹸作りに用いられたということはあるけれど)。絶滅収容所は、産業的規模の点で現在の屠殺場(「食肉処理場」)に、そのガス室という方法の点で犬猫の殺処分所(「ドリームボックス」)と似ていて、それを足して割ったようなものなのかもしれない。




だからこそ、上に挙げたアーティストのスー・コーによるこの言葉は的を得ている。ノスタルジーは消費可能だ。ロマンスがそうであるように。実際には存在しないものを想像上で充足することによって、本質的には変わらない日常は維持される。「終わったこと」になってはじめて、安心して消費されることができるようになる。海外でナチスにかかわる映画がこれほど生産されるようになったのも、また韓国で植民地時代や独裁政権時代の映画がたくさん作られるようになったのも、ある種これらの歴史が「終わったこと」、すなわち安全に受け入れ可能なものになったからじゃないのかと思ってみる。でも、何も終わってはいないのだ。いまだにナチスや日本による植民地支配の罪を認めない輩が多いのは事実だ。けれどもそんな認識は(日本国内はさておき)国際的にはいまや少数派だ。ナチスを、あるいは植民地支配を支配する側が、そんな次元に止まっているかわりに、わたしたちはいつのまにか自分たちもそんな歴史のなかで作り上げられた暴力的システムに加担しているのではないかと、「受け入れ可能」なものだけ受け入れているのではないかと自問してみる必要があるのではないか。

<証言の(不)可能性——無恥を知ること>
アガンベンは収容所で衰弱しきり死を待つのみのものたちが「回教徒」と呼ばれていたことを挙げて、証言のパラドクスについて語った。証言することができないものこそ、唯一証言の資格があるということだ。上に語ったように現在の工場式畜産および屠殺場が絶滅収容所と驚くべきほどの類似を示していることを考え併せるとき、では、ここでアガンベンが語る「回教徒」を、現在屠殺場において「ダウナー」や「スクーター」と呼ばれる動物たちと考えることはできないだろうかという疑問が湧く。かれらは衰弱しきって、まともに歩くこともできない「病獣」だ。

もちろんアガンベンにとって、これらの動物たちは「回教徒」とは別物なのだろう。アガンベンは「人間」と「非人間」の狭間に落ちたものたちが「回教徒」であったというが、このような図式からは「非人間」はもとから「底」にいるために、「底を見る」という状況に移行することもない存在であるのように前提されていると読むこともできる。少なくとも素朴な人間中心主義ゆえにアガンベンの念頭には人間以外の動物の姿は(ほとんど)存在しないようだ。

けれども動物の証言可能性を考えるとき、証言不可能なものたちが唯一証言可能だというこの逆説は足をとめて考える価値があるように思う。というのも、動物運動のなかで動物たちがあまりにも表象、代弁可能なものとして——動物を擁護するものたちによってすら——捉えられている現実を注視する必要を感じるからだ。あるいは、その表象された悲惨さとは今度は逆に、健康なヴィーガンたちの姿でもいい。屠殺場を表象しようとする試みは溢れており、このことは確かに必要性から来ることではある。私自身も含め、多くの人々が動物たちが残酷な仕打ちを受ける場面を映像を通して目撃ことを通して、そうした暴力に依存しないようなライフスタイルを模索するようになるからだ。そうしたライフスタイルが結果的により身体に良いということも認めよう。だがその時、ある存在に課された非道な暴力の姿が、そしてその暴力とわたしたちの関係が、あまりに単純化されて描かれてしまうことがあるのではないか。

絶滅収容所を生き延びたものたち、「回教徒」の存在に触れたものたちを圧倒する感情は「恥」だという。また、「護送の途上、SSが気まぐれから囚人をアト・ランダムに選んで射殺したという逸話の中で、自分の運命を知った青年が顔を赤らめて恥の表情を浮かべた」。屠殺場で殺される動物たち、あるいは「ダウナー」や「スクーター」と呼ばれ、死ぬに任される動物たちの心のなかにはどんな感情が渦巻いているのだろう。もしかしたら、その動物たちはみな「証言不可能ゆえに証言可能」な「回教徒」だと言うこともできるかもしれないが、これもまた一つの単純化だろう。「ホロコースト」という言葉によって人間が利用し、殺戮していく動物たちの現在の状況を十分に表すことができないのと同様、「回教徒」という言葉もまた不十分なのだ。ひとまずは、殺される自分の運命を知った青年の恥を、「回教徒」と呼ばれた存在に触れたものたちの恥を想ってみる。それは、殺すものたちの、そして殺しを知りながら何一つ変わることない日常を続ける私たちの無恥を照らし出すものだろう。そうして無恥を知ることによってのみ、その恥によってのみ、わたしたちは証言(不)可能性の含意について考え続けることができるのではないだろうか。



(スー・コーによる版画。「アウシュビッツは、誰かが屠殺場を見て、「あれは動物に過ぎない」と思うところなら、どこでも始まる(auschwitz begins wherever someone looks at a slaughterhouse and thinks: they are just animals.)」とある。)


参照サイト
https://tomkins.exblog.jp/8789869/

コメント

人気の投稿